地球ゲ―ムを楽しもう♪

目を覚まして生きていく

記事のストックがなくなりました

記事とは、もちろんこのブログの記事です。

正確にいうと、記事のストックをなくした、が正しいです。

今までは最低3つくらいは、公開してもいいだろう記事のストックをしていたのですが、何だかそれも疲れてしまいました。

私の場合は毎日は絶対に無理…と徐々に間隔をあけたり心持ちを変えてみたりしてきましたが、記事のストックはずっと持ったままでした。

でももうそれもやめようと思います。 

ブログは細々と続けていきたいとは思いますが、次はいつ投稿しようか…と考える時間すら疲れるな…と思う始末です。

さらにマイペースになりそうですが、皆さまのブログにはお邪魔させていただきます。

 

誰かの安心のための人生

皆さんは自分の人生を誰のために生きていますか?

自分でしょうか?

家族でしょうか?

それ以外の大切な人でしょうか?

私は自分のためですが、その自分のための中には家族も含まれています。

私は結婚していて、夫と息子と義理の母がいます。一人で生活しているわけではありません。

今の私の生活が成り立っているのは相互に支え合っているからです。

だから自分のための中には家族も含まれています。

でもそうは言っても譲れない部分もあります。

今から3年ほど前のことですが、判断を誤って後悔したことがあります。

息子に関することで、私とは異なる考えの義理の母の考えというか、要望を受け入れたことで後悔したことがあります。

その要望を私に呑ませるために義理の母が言った言葉は、「○○させてやってほしい。○○しないと私が心配なのよ。」でした。

義理の母は自分が心配する気持ちを解消して安心したいから、受け入れ拒否していた私に上記の言葉を言って自分の要求を通すことに成功したわけです。

上記の言葉は言われた人に強い罪悪感を植え付けます。

私は罪悪感を感じました。

義理の母にこんなにお願いされている。

心配だからお願い、と言われているのに断ったらいかにも私はひどい人のように感じてしまうような状況です。

正直言ってこれはずるい、卑怯なやり方です。

この時の私は、自分の考えは変わらなかったけれど、義理の母を安心させる方を選んでしまいました。

もうそのことを根に持ったりはしていませんが、この時以来、私は誰かの安心のために自分の考えを捻じ曲げることはしないと決めました。

その一件以来、義理の母から同じようなことは言われていません。

それ以外にも色々とあり、家族として支え合いつつも境界線を引くことを学んだので、今後同じ間違いをしないようにしたいと思っています。

我が家は同居しています。

一年に一度か二度、数日間だけ顔を合わせる仲ではありません。

ですから表面的な優しさだけではやっていけないのです。

それでは大切なものを守れません。

お互いを尊重することはとても難しいことです。

世代間の価値観の違いに加え、個人個人の価値観の違いもあります。

ここまで読んで、義理の母がとても意地悪そうな人だと思った方がいるかもしれませんがそれは違います。

意地悪どころか、とてもいい人です。 

でなければ同居なんてできません。

でも人には皆、良いところも悪いところもあります。それはお互いさま。

そう思えば、少々のことは気になりません。

大事なのは、自分がしっかりすること。

相手を打ち負かす必要はないけど、いざという時にエネルギーを引いてはいけないんです。

私が後悔したのは、私のせい。

自分のエネルギーを引いて、最終的に義理の母の要求を受け入れることを決めたのは私。

このことは私にとって大きな学びになる出来事でした。

 

「誰かの安心のための人生」を送って後悔することのないようにしたいです。

 

 

 

知識よりも大切なもの

人間は一応この地球上では食物連鎖の頂点に立ち、発達した脳みそを活かして様々な文明を築いては滅亡する…ということを繰り返している種です。

人間が人間たる所以は、本能を理性でコントロールしながら、「知性」と後からもたらされた「知識」によって繁栄してきたという点にあると思います。

「知性」と「知識」

似ていますが、明確な違いがありますね。

「知性」は物事を知り、考え判断する能力。

「知識」は知る、認識する、理解すること。

「知性」は、時間の経過や経験とともにより磨かれていくことはあると思いますが、基本的には最初から備わっている能力だと思います。

一方で「知識」はゼロの状態からコツコツ積み上げるもの。

現代文明の中で生きる私たち人間がより良く生きていくためには、「知性」と「知識」の両方が必要です。

ですが、いつの頃からかは分かりませんが、人間はだいぶ知識偏重の生物になってしまったような気がしますね。

皆さんはどうでしょうか?

知識はより多いほうがいいに決まっている

情報はたくさんあるに越したことはない

そんな風に思っていませんか?

もしもこう思っているとしたら、一旦ブレーキを踏んで立ち止まり、自分が持っている物や情報を整理したほうがいいかもしれません。

極論を言えば最低限の衣食住が確保されているならば、物も知識も情報もなくても死にません。

でも「知性」はあったほうがいいです。

もしも物、知識、情報、知性の4つの中から1つだけしか得られない状況だったら…私は「知性」を選びます。

長期的な視点で見たときに、自分を一番助けてくれるのは「知性」だと思います。

人から助けてもらうにも、理解されるにも、信頼されるにも「知性」が必要です。

例えば誰かを本気で説得したいと思った時に一番大切なのは、知識ではなくコミュニケーションや会話を通じて信頼関係を築くことだと思います。

知識や情報を駆使して自分の主張をストレートに伝えても反発をまねくだけです。

どんな主張にも完全なる正義はないです。

正義はないんですから、正解は人それぞれ。

にも関わらず、自分の考えに対する理解や共感が欲しいと思うのなら、信頼されるに値する「知性」が必要だと思います。

「知性」を持つ、磨く、というのは自分は素晴らしい、人間は素晴らしいと賛美することではないと思います。

むしろ逆でまずは、

自分は何も知らない存在だと、

愚かな存在だと、

ありのまま受け止めることだと思います。

言葉で表現しようとすると、きつくなってしまうので難しいですが…。

私は自分のことが好きですよ。

人間に生まれてよかったです。

でも自分も愚かな人間の一人だという自覚があります。

だからあーだこーだ言いながら、少しでもましな人間になれたらいいな…と思っています。

そう思うところからが知性を磨くためのスタートだと思います。

自分をあんな極悪人と一緒にするな。

自分はあいつよりよっぽどましな人間だ。

自分は心から世界の平和を願っている。

こんな風に自分を善側において、悪役を批判していると気持ちがいいかもしれません。

でもこうやって、自分とそれ以外を分離して考えている限りはきっとこの世界は変わらないんだろうなと思います。

人の意識を投影したものがこの世界だと思います。

だとしたら自分にも責任の一端はある…。  

光と闇は背中合わせです。

分けて考えてしまうと、いつまでも世界は一つになりません。

 

さて、自分にできることは何でしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

維持と成長

自分自身のことを評価するとき、現状維持している自分と成長している自分、もしくは後退している自分などを感じて喜ぶ、もしくは落ち込むことが誰でもあると思います。

人は生まれた時からある一定の年齢まではあらゆることが右肩上がりに成長するケースが多いと思います。

五体満足に生を受けて、家庭環境もさほど問題なければ順調に成長するものです。

でも体の大きさなどはある一定でストップするし、基本の人格形成もほぼほぼ10代のうちになされると思います。

もうすでに20代の頃にはピークアウトしてしまう能力もあります。

つまり頂上がなくずっと成長し続けるということは、基本的にはあり得ないということ。

でも人は成長し続けることを望む人が多いし、成長することこそが良いことだと思いがちです。

でも年齢を重ねるごとに、成長=必ずしも良いこととは限らないと思うようになりました。

頑張れば成長する…というのは何でも右肩上がりの時期の若い人の発想です。

私は40代ですから、人生100年時代と言われるようになった今では40代なんてまだまだヒヨッコ…全然若いよと思う人生の先輩方もおられるかもしれません。

確かにまだまだやれることはたくさんあるし、十分伸びしろがあると思います。 

 

でもただ成長し続けることを目標に掲げてしまうと、行き詰まるのが目に見えています。

私は趣味で弾いているピアノをちょうど2年半前に再開しました。

これまでモチベーションが下がることなく、地道に積み上げています。

私は受験勉強以外でこんなに一つのことを頑張ってきたことは今までにありません。

飽きっぽい性格で、興味を持って何かに取り組んでも三日坊主になることばかりでした。

でもピアノだけは違いました。

何かスイッチが入ったような感覚です。 

昔は基本練習嫌いでしたが、今は練習大好きです。

何に対しても情熱を持てない…つまらない…そう思って絶望に近いような気持ちの時期がながく続きましたが、ずっとそばにあったピアノが大好きなことに気がつけた時は嬉しくて涙が出ました。

すごく大げさかもしれませんが、生きる希望を見つけたような気持ちでした。

でもブランクが20年近くありますから、最初の頃はその時間を取り戻すためにがむしゃらに練習しまくりました。

一日6時間ぐらい練習する時期がしばらく続きました。

でもそれはながくは続かなかったです。

体が悲鳴をあげました。

自分の今の状態や年齢的なことなどを無視して、頑張れば成長できると思っていたので加減がわかっていなかったんですね。

今はだいぶ長時間練習にも耐えられるようになりました。自然とピアノ筋とやらもついてきたと思います。二の腕に力こぶができるようになりました(笑)

私は音大も出ていないし、音楽の専門知識もなければ、人に教えられるような経歴も持っていません。

でも好きなのです。

必死に続けたところで、素人の趣味の範疇を越えることや金銭を稼ぐことに何らつながらないかもしれません。

でも私にとっては自分に与えられた時間とエネルギーを存分に注ぐ価値のあるもの。

時々思うんですよ。こんなことしてないで、外に出て働くか、自宅にいるにしてもお金につながるようなことに力を注いだほうがいいんじゃない?

生きるにはお金が必要なんだよ…と。

でも今の私は将来の不安は横に置いて、自分の心に従っています。

それが出来るのは支えてくれる家族のおかげでもあります。 

とてもありがたいことだと思っています。

話が脱線したので、戻します。

ピアノに限らずですが、何かの技術って常に磨いていないと現状維持することすら難しいものだと思います。  

成長しなければいけないと思っている人にとっては、現状維持していることは全然すごいことには感じられないかもしれません。

でも私は、維持し続けていることはすごいことだと思います。

となると身体や心を壊してまで頑張る、成長することにこだわるのは間違っているなと思いました。

こういう場面で「足るを知る」という考え方ができると、向上心を持ちつつも年齢や自分の状態に応じたやり方で自分の能力を深めていくことができるのだろうと思います。

成長することが良いこと。

成長して当たり前。

人間は成長するために生まれてきた。

これは当たっているようでいて間違っている…正確に言うと反対のような気がします。

元々、その人が持つべきものは最初から備わっている。

「ない」を「ある」にするのではなくて、「ある」ものを「引き出す」こと。

生きている間にどのくらいたくさん引き出せるか、それは人それぞれ。 

たくさん引き出せた人は、たくさん成長しているように見えるだけ。

元々あるんだという捉え方をすると、成長する人はすごくて、そうじゃない人はだめという考えには至らないと思います。

後退でも維持でも成長でも、自分の本質は変わらない。

自分がどうしたいか、ただそれだけだと思います。

生きることを深刻に考えてしまうと、もっと成長しなくてはいけない、とか魂を磨かなければいけないとか、苦しい方向に行ってしまいます。

私は生きることを苦行にはしたくありません。

修行する必要もないと思っています。 

 

ゼロから積み上げる「苦行」ではなく、もうすでに自分の中にあるものを見つける「宝探しゲーム」だと思って生きていきたいです。

 

 

人の評価は面白いがあてにならない

自分の発信に対する人がくだす評価…気になりますか?

よく自分軸で生きるためには人と比べるのはやめよう、人の評価を気にするな、というようなことはよく言われることです。

比べない、気にしない、できますか?

私は以前よりはだいぶしなくなったけれど完全にはなくなりません。

比べる時はあるし、気にすることもあります。

でも受け止め方や捉え方、回復するまでにかかる時間は大きく変わりました。

まず比べることに関しては、優越感や劣等感を感じるために比べるという無意味な比較の仕方はだいぶ減りました。

自分と他人は違っていて当たり前ですから、優劣ではなく、ただの違いとして認識する。

出来ない人をバカにするとか、出来る人を崇拝するようなことはしません。

そして気にすることに関しては、人の価値観や意見は十人十色であることを理解することで、ダメージを最小限に抑え、早期に回復できるようになりました。

最近では、人の評価って面白いし、案外いい加減なものだな…と思うようになりました。

だから人の評価に振り回されたり傷つくのは時間の無駄だし、人の評価で自分の価値を下げる必要もない。

例えば自分の記事に対して、低評価をつける人と高評価をつける人がいるとします。

もうこの時点で人の評価はあてにならないことが分かります。

同一人物であってもその時々で違う評価をくだすこともあります。

今日は高評価をつけたり共感したとしても、その翌日に嫌なことがあったり気分が悪かったりすると、同じものに対して低評価をつけたり批判的な気持ちになったりすることもある。

評価する対象物は姿を変えることなくそこに存在しているだけなのに、観察者のみる角度が変わってしまえば全然違うものに見えてしまう。

私も含めて人が人にくだす評価はあてになりません。

だいぶ前に一度だけ、「はてなスターのマイルール」という記事を書きました。

私はどんな内容の記事であっても、記事に対するスターは3つと決めています。

カラースターをつけることは余程の内容でなければないです。

ブックマークでコメントをくださったものに関してはスター5つに決めています。

数を決めているのは、私自身の評価はあてにできないし、明確な基準がない状態でその時の気分などで増減させたくないという気持ちからです。

これは私のマイルールなので、もちろん皆さまそれぞれでよろしいと思います。

時々クリックのミスで数が多くついてしまうことがありますが、それはミスです。

私はバランスを重視するタイプなので、内容や人で差をつけることを自分がしたくないのです。

SNS上の誰もが見ることのできる場所で、色々な思いを抱えた人たちがそれぞれの思いを込めて書いている記事です。

人の気持ちは分かりません。知らず知らずに傷つけてしまうこともあります。

だから「読んだよの印」以上の意味をスターに持たせないようにしています。

私なりの他者に対する配慮です。

記事にすごく共感したり、何か気持ちを表したい時にはブックマークしたりコメントするようにしています。

気持ちの表し方も本当に十人十色ですね。

当たり前ですが、他者も自分と同じ基準で評価しているとは限りません。

 

時々こうやって自分の基準について言及してみるのもいいかもしれませんね。

 

 

 

 

 

陰陽のバランス

私達がいるこの次元は陰陽という対になる法則に従ってあらゆるものが存在しています。

真逆と思われる存在も、互いに補い合う役割を果たしています。 

どちらが正しいとか間違いはなく、ただそれぞれに特徴があるだけ。

相対するもの同士が正しさを主張したり、どちらかを支配しようとすれば、必ずバランスを取るための出来事が起きたりすると思います。

バランスをとろうとする一つの例として、夫婦でもパートナーでもいいですが、自分の相棒としてわざわざ反りの合わない相手を選んでしまうようなパターンがあると思います。

うちの夫婦も真逆の存在です。

最近はあまりなくなりましたが、あまりにも考え方が食い違っている場合に、何でこの人にしたんだろう!?って本気で思ってしまったことが何度かあります。 

でも今は選んだ理由がわかります。

それは、陰陽のバランスをとるためにあえて反対の相手を選んだんだ、ということ。

一見合わないように見えるけど、受け入れることで自分が高まる相手をおそらく選んだということ。

でも合わないと思っているのはきっと表層意識の部分だけで、陰陽は循環ですからきっとパズルのピースのようにうまくはまっているんだと思います。

陰陽のバランスのとり方は、別にパートナーとの関係じゃなくてもいいですが、人は自分の中の陰陽のバランスをどこかしらで、何かしらでとらないと、まっすぐ立っていられなくなるんじゃないかと思います。

平衡感覚を失うととんでもない方向へ歩いていってしまいます。

まぁそれはそれで面白い人生かもしれませんが…。

個人の視点から大きな世界全体へ視点を移しても同じことだと思います。 

支配する側とされる側という二極が存在する限り終わらない争いのループを繰り返します。

今この世の中で起きていることは、映画の世界の中の出来事のように感じてしまうことがあります。

この世とあの世、一体どっちが現実でどっちが幻なんだかわからなくなります。

もしもリアルだと思って生きている世界が幻ならば、あまり深刻になる必要はないのかもしれませんね…。

だって幻ですからね。

でも幻と分かった上で、真剣に生きる。

それが地球ゲームを楽しむコツではないかと思います。

中々ゲームとは思えないですけどね。

でも皆目的は様々でしょうが、地球でのアトラクションを楽しみにやってきたのではないでしょうか。

アトラクションにはのんびり平和なものもあれば、FUJIYAMAのような絶叫マシーンもあります。

自分は一体どんなアトラクションを経験したくてやってきたと思いますか?

最近の世の中の流れを見ていると、変化のスピードがものすごいです。

自分の人生ゲームを予定通りクリアできるのか、それとも荒波に飲み込まれてゲームオーバーしてしまうのか?

きっとこれからハラハラドキドキの世界が展開していくのだと思います。

不安や恐怖や怒りの眼鏡をかけて生きるのもよし。

安心や喜びや優しさの眼鏡をかけて生きるのもよし。

インチキだらけの世の中ですが、その中にも本物はあると思います。

ぜひ本物を見出して、自分だけの人生を生きたいものです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いい人をやっている暇はない

少し前に、「もっと自分中心でいい」という記事を書きました。

満たされている自分が与えられるのが、無償の愛。

満たされていない自分が与えるのは、見返りを求める愛。

見返りを求める愛は不足感からくるものですから、一見相手に与えているように見えて、実は相手から搾取してしまっている可能性すらあります。

これはお互いのためになりません。

表面上は違いが分かりにくいし、与えている本人も無自覚の場合も往々にしてあるところが厄介です。

見返りを求める愛を受け取っている側も、無自覚だったり、何かよくわからないけど苦しかったりする。

はっきりと搾取されていることを自覚している場合もあると思います。

よく「私の両親は毒親でした」…とはっきり言うような方は、親からの搾取を自覚していたんだと思います。

大人になって、呪縛から解かれて逃げられた場合はそこからやり直しが出来るけど、中年以降もずっと縛られていて苦しんでいる人もいます。

自分の人生を生きるためには断ち切らなければいけない因縁があるし、いい人をやめる覚悟が必要です。

特に深刻なトラウマを抱えていない人も安心はできません。

日本人は全体的な傾向として、自己犠牲を愛だと勘違いする節があります。

正確には、自己犠牲を愛だと思わせる教育が幼いころからなされ、無意識レベルにまで刷り込まれています。

だから自分が幸せになることに罪悪感を感じたり、いかにも相手を心配して気遣うふりをしてみたり、いい人に見られるように一生懸命です。

自分のコップの水が満タンじゃないのに、人に分け与える余裕はないはずです。 

少ない水を分け与えていたら、いつか枯渇するし、与えている間も本当は苦しいから相手から搾取することを無意識にしてしまいます。

この人恩着せがましいなぁと思う場合は、間違いなくこのパターンだと思います。

愛のエネルギーは人から貰うほうが楽だし、得をすると思うかもしれませんが、私は逆でものすごく非効率的だと思います。

いい人をやめて、まずは人を愛する前に自分に愛される生き方をする。

そうして気持ちよく人に愛を分け与えることができるレベルになれば、必ず人からも愛される。

人はいつか必ず死にます。

いつかは分かりません。

もっと生きるつもりだったのに、突然死んじゃうかもしれません。

未来の幸せのために今を我慢して生きていると一生我慢することになります。

命は今この瞬間にしかありません。

その一瞬が積み重なって、時間が続いているように感じるだけです。

 

私は(都合の)いい人のまま人生を終えるのは嫌なので、良い意味で人の言うことを聞かなくなりました。

「私にはいい人をやっている暇はない」と思い、日々を過ごしています。